親というものの存在。



最近というか今年に入ってから
子供が親を殺してしまう、という
事件がやけに多い気がします。

複雑な家庭事情が発端となったものも
あるのだけれども、その多くは
普通の家庭の普通の子供がただ腹が立った、とか
小言がうるさいなどの理由から親を殺してしまってる、そんな事情。




なぜ
「勉強しないから勉強しなさい」
とか日ごろの態度を注意されただけで
すぐに親を殺してしまうんだろう。


子供時代の「勉強」というのも
学校に通学するのだって
人に対する対応態度というものも
将来の社会生活における自立のために
全て必要なことなのに、一時期の自分の態度ひとつで
平気でやってはいけないことをやってしまうことを。



昔、自分が子供時代だったころ。

親のしつけ、というものはかなり厳しかった記憶があって、
「これはここではやってはいけない」
や、
「ここでのこれは常識がない」
などのマナーを厳しく教えられまして、
その時は
「なんだよー」「そんなこと間違ってる」
と思いましたよ。
それで注意されたときには思い切りヘコみました。


「自分は何も悪いことをしていないのに、何故。」


だけども今を振り返れば、
そのことを教えて貰わなければ社会人として
かなり非常識な人になっていただろうし、
本当に親には感謝しても感謝しきれない。
本当にそう思います。


少し話が脱線しますが、

先日のドイツでのワールドカップの決勝戦での
ジダン(フランス)がマケラッツィ(イタリア)に頭突きをして
レッドカードで一発退場になった件。


世間では

「W杯決勝戦という神聖な場所でのジダンの頭突きは
許されるべきではない。全世界で見ている子供達の夢を壊した。」


という意見も結構あったようですが、
それは違うんじゃないか、って思いました。
恐らくジダンはW杯の決勝でどんなことがあっても
我慢しよう、と思ってたと思うんです。
でも退場までした頭突きの行動というのは耐えられないことで
あったのでは。と。
(フランスは移民が結構多くいろんな人種の方がいらっしゃるから
人種差別の発言ではないのか?という説もあったみたいですが。)

後日、母親と姉に対しての侮辱的発言がきっかけだったこと、
頭突きの行為自体は子供達や観客に謝罪する、ということが
インタビューによって明らかになったのです。
その「侮辱的発言」がどのようなものかは明らかにされなかったけども、
本当に心中耐え切れないものであって、思い出したくないのだな、
ということもわかるような気がします。


自分のことを悪く言われるのは知らん顔してればいいけれども、
自分の家族に対しての悪口に耐え切れず、というのは
ジダンの親・家族に対する思いやり、愛情というのが
大きいということなのでしょうね。



普通、自分の親というものは

イコール「尊敬」
イコール「偉大なものの象徴」

というのが当たり前なんです。

それを虫けらや物言わぬ人形のように
平気で親に対して手にかける子供(とりわけ未成年)が
増えてきている。
本当に残念でならない、いや、憂慮すべき問題
じゃないだろうか。


自分の親を大切にすること。
それがひいては周りの人々に対する気配りや
コミニュケーションというものに
つながっていくのではないのでしょうか。
どれも昔の日本にあって今の日本に欠けている
ものなのだから。



道徳とは。

なんだかここ数年どうかなぁ、と
思うことが多々あります。
あれ?これってよかったっけ?と
思うことも多々あります。


たとえば。


電車の中で平気で食べ物を食べる
学生さんとか、
平気でくずを道端にポイ捨てする人たちとか、
止めてはいけないところに自転車を
駐輪する人たちとか…。


こういうのはまだましな(だけどましではないけど。)
ほうかも知れませんが、他人に確実に迷惑を掛ける
行動をする人というのが目立ってきているような気がします。


一番身近な例でいうとコンサートとかライブとか観劇のような
文化物に触れるところでしょうか。
うちの地元でかなり人気なタレントさんがいるのですが、
最近は全国区のお仕事もするようになって、他の演劇などの
客演などもやったりするようになったのだけれども、
ファンのマナーがなってなかったらしくて所属してる事務所のHPにも
やんわりかつ厳しく注意をしている状況(前からマナーが
なってなかったらしいけれども注意をしても
効果があまりないみたい。)になってて
嗚呼、大変だなぁ、と個人的にも思うところであります。


私自身も何年か前のライブにて自分の前の席の人が
酒盛りしててうるさかったという記憶がありまして。
個人的に小心者なので注意できずに、そいつらの目的らしい
ライブの時にそいつらの席を足蹴にしてずらしたり
したこともあります。(ネクラ。。)


だけども。
それ以上に多大な迷惑なのは飲酒運転。

「自分はそんなに寄っていないから大丈夫」
とか訳のわかんないことを言っている人は危ない。
テレビのニュースでの実験でも実証されてるし、
何よりもくだらない目的のために飲酒して車運転して
それで人の命を奪ってる事件もあるのだから本当に最悪。


なんだろうな。

「モラル」と言う言葉を忘れてるのかな。


世の中はどんどん進化してきて、
「これがあればいいな」というものも
数年後には実現していて、考えるということも
やらなくなって、調べるということもやらなくなって、
それで自分で調べたり考えたりもしないで、わからなくなったら
「あ、誰かにすぐ聞いたらいいや。」
という安易な気持ちになるのかな。


考えることを忘れてしまったら必然的に
道徳(モラル)もなくなっていくような気がする。
やろうとするなら今一度振り返って
よく考えて、考えて考えてから行動したって
おかしくないのでは、と思う所存であります。


新元号に思うこと。

さて。
あともう1か月ほど寝ると平成の世の中も終わり、新しい世の中となるわけですが。


つい先日新しい元号が発表されましたよね。
どのようなものになるか期待もありましたが。
4月1日の11時半過ぎたそんな時にテレビで流れてきた新元号は



令和

一瞬目を疑いました。
なにそれって。
その言葉を聞いた瞬間、ものすごく違和感を抱いたのは覚えています。


なんで時代と逆行してるのか。
もう一つ頭の中で感じたことです。

新聞に作家の高村薫さんのコメントがあったのでお借りすると


「令」という言葉は国民を律する規則というイメージが強いと思う


海外のメディアでも
日本の新時代の元号を決めるのに、伝統を打ち破って、中国の書ではなく日本の書を使うという判断は、
安倍保守政権の国粋主義的傾向と結びついているように見える。 (イギリス・デイリーテレグラフ)

テンプル大学アジア研究ディレクターのジェフ・キングストン氏のコメントを紹介。
同氏は、CNNに、 「“多くの学者が、令和の意味や安倍首相の説明に
すっきりしないものを感じている”と話している。新しい元号は、日本の政治の右傾化を映し出している。(以下省略)(アメリカ・CNN)

私は戦争を経験していない世代なので学校での勉強の知識でしかないのですが、
昭和10年代中頃に国民を統制していた時代があり、大政翼賛会のようなものに結びついて戦争へ…
そのようなことは二度と繰り返してはならないはず、痛みを経験しているはずなのに
なぜもう一度同じことを繰り返そうとしているのか、理解に苦しみます。
万葉集から出典ということでしょうが、ひょっとしたら後付けなのかと勘繰ってしまいたくなる。
元号が決まった瞬間の街の様子をテレビ中継で見ていると、おいおい本当にいいのか、
ただ喜んでいるだけで、ただ言葉の響きがどうのこうのといっている人もいて少し心配。
これが昭和→平成に移る瞬間に世の中にいた人たちが見ると、きっと疑問に思う人も多いと感じました。
元号は決まってしまった(とう言い方はふさわしくないのだろうが)ので
それでこれからを過ごしていくことになるのだけれども、重ね重ねになるけれども、
同じ過ちを二度と繰り返さぬよう、切に願うだけです。