沖縄について。



ここ2、3年ほど沖縄ブームが湧き上がっております。
音楽ではBIGINをはじめ、モンゴル800など、
テレビ番組では「ちゅらさん」の続編が決まるなど
まだまだ沖縄は熱いかと思われます。
その中で私の感じる沖縄についていろいろ
語りたいと思います。




私が初めて「沖縄」を知ったのは父親の職場の人の
おみやげの星の砂でした。
その後私の知る沖縄とは教科書で学ぶ歴史や地理
だったり、テレビ番組で見る沖縄の風景。シーサーや
ゴーヤなどの郷土料理。それだけでした。
そして、父親の話す、
「沖縄へ初めて行ったのはまだパスポートの
いる時代だったな。」
この言葉をふと思い出し、改めて沖縄について
もう少し知る必要があると感じました。
(沖縄情報IMA中沖縄の歴史より一部引用もあり。)




沖縄の歴史。 古くは流求人といわれる人が5世紀ごろに
大和に帰化し、それから隋〜唐の時代に
文化などで交流があり、廃止になるまで
続きました。その後は1世紀ほど交流が
絶たれてその間に独自の琉球文化が
生まれたのでは、といわれています。



12世紀ごろに琉球王朝が誕生したが、
桃山時代に豊臣秀吉が天下を統一した後、
琉球王朝を日本に帰化させようとする動きより
琉球王朝の運命が動き始めることとなろうとは。
江戸時代に入り、1660年代より干渉がますます
厳しくなっていき、さらに17世紀ごろから
外国が開国を求め始め、1853年5月にペリーが
那覇港沖に停泊し、王朝と交渉を始め、その中で
友好関係を結べると判断したペリーは江戸へ向かう。
(いわゆる黒船襲来)日米和親条約を締結後、那覇に戻り、
強引に米琉修好条約を締結することとなる。
この頃、酔った米水兵が女子に暴行を働くなど不祥事も
起こっており、今の沖縄の関係に似ていると思われる
事件もありました。



明治にはいり、1871年の廃藩置県により琉球王朝の
存在に問題があり、1879年に政府が400人の部隊を
王朝に送り込み、沖縄県を宣言したのです。
だけども他の地域と比べて国民としての権利を与えられる
のに時間が掛かったそうです。



時は昭和に移り、太平洋戦争が勃発し、敗戦が濃厚に
なった頃、沖縄は国内唯一の地上戦の場所となり、
本土決戦場の捨石と位置付けられた沖縄は
県民も皇国史観の教えを叩き込まれ、集団自決などで
12万人以上(餓死などを含めるとそれ以上)の死者が出る
結果となりました。その出来事はお年寄りが今でも
語りついでおります。
戦後、県民は収容所に送られ、その間アメリカ軍は
土地を軍用地として接収していった。
それは沖縄という土地が東シナ海と太平洋の境界線だけで
なく、朝鮮半島からフィリピン、インドネシアをカバーする
陣地の十字路にあたる位置で要石として位置付けていた。
強引な土地使用の条件の改善を求めて
「金は一時、土地は万年」このようなスローガンで
運動を進めていって、後に復帰運動への足がかりと
なっていったのです。
こうして1972年5月15日に沖縄は日本へ復帰することと
なるのでした。


1978年の海洋博の開催により交通網も整備されて、
現在は有数な観光地として観光客も多くやってくる
こととなった沖縄。
そのような影で今でも残る米軍の基地や米兵の
不祥事などの問題が今も残っているのも現状です。
復帰したとはいえども本当に安心して暮らせるまでは
もう少し遠い道のりかもしれません。





沖縄の人は本州のことを「本土」という表現で
述べています。
昔から様々な外圧を受け続けて、その中で耐えて
苦しみを乗り越えて、文化、風土などを守り続けて
きている沖縄の人にとって、この「本土」という
言葉は重みがあると私は感じます。
もしかして沖縄の人こそが本当の「日本人」
言えるのではないかと思います。
そのようなことを思うと軽軽しく
「日本人です。」とは言えない気がします。
そして自分がとても愚かな人に思えてなりません。




選挙について。



2003年4月は大きな意味を持つ選挙、
「統一地方選挙」が行われたのです。
前半の4/13は知事や政令都市の市長選、
後半の4/27は他の市長、町村長、市町村議
選挙が行われましてどちらも面白い選挙戦
だったのではと思うのです。
それを見ていきながら、選挙について
一寸考えてみようかなと。





前半の知事選では石原都知事が再選されたり、
北海道では4人目の女性知事が誕生。
政令都市では札幌が得票数に満たない為にもう一度
選挙が決まったりとありましたが、
でもいずれも全て私の中では折込済みのことだったので
さほど驚きも何もありませんでしたが。


一方の後半戦。
うって変わって今度は地方都市、町村などの
合併だったりリコール問題での町長選だったり
ごみ処分場誘致問題など、いわゆる「地方の問題」に
よる選挙戦だったのでは。むしろ、私的には
後半戦の方が注目すべき選挙戦だったのではと思います。



例えば長野県山口村は旧中山道の歴史的場所があるのにも
関わらず、お隣の岐阜県の市と合併を進めていこうという案が
あるのだけれど、合併したらその場所は長野県から岐阜県の
所有になるということでそれはいかん!と反対派が立候補する、
というケースだったり、
秋田県の鷹巣町では元々福祉の施設やサービスなどがかなり
充実していて、町長も推進していったのだけれど、
やはりこの不況のご時世でそんなことするよりもまずは
経済政策、福祉の予算を経済対策に回して合併も推進しようと
する新人が立候補したりするケースもありましたが、
結局どちらも合併推進派が当選するなど、合併への動きを
容認する流れに傾いているのかなと。
沖縄の宜野湾市では普天間基地の県内移転が焦点となって
県内移転反対派が市長に当選したりなどいわゆる
きちんと何がポイントなのかが明確な選挙というものは
当然ながら関心や興味が高いのは当然ですし、都市部では
なく、地方に行けば行くほど問題も明確になるものです。





多選というケース。この多選、本当の地方部で誰も立候補
する人もいなくて無投票当選ということもあれば、
中では多選ということに対して批判をして対立して立候補する
こともあります。でも、前者は仕方ないにしても後者は
時と場合によると思うのです。
多選される、ということは今までやってきたことの成果が
評価されているということであり、公約も評価されていると
いうことであるので、多選が悪い、という訳ではなく、
県民や市民町民などに評価されていれば問題はないと思うのですが。





ここ最近の傾向といえば政党などに頼らない「無党派層」というのが
増加していて今回も無党派が躍進した選挙でありました。
その選挙運動というのは車を使わずに歩いて有権者と直接の
対話を目指したものだったり、辻説法だったりボランティアと
共に運動したりと「草の根運動」ですな。
ですが、この「草の根運動」は地方ではかなり有効なのですが、
都心部など転勤してひとり暮らしや新興住宅地などでは
あまり交流や結びつきのない地域にとってはやはり
知名度がなければ得票に結びつかない欠点があるので、
今後は都市部と地方部での選挙運動の方法を変えていかないと、
選挙戦では厳しい戦いが強いられるのではないのかな、
改めてそう思った次第です。





選挙そのものに関しては、昔と比べて不在者投票の条件が
緩和されて、レジャーや買い物などであっても大丈夫だし、
夜も8時半まで投票できるしで前回と比べて不在者投票の
投票率が増加したとのことです。ちなみに私も不在者投票派です。

なぜって?

だって日曜日に投票しに行くのが面倒で。(゚-゚)おぃ
これほど面倒な事はないですよ。
だって日曜日といえば世間的にお休みじゃないですか。
それなのになんで選挙なの?的主義なので不在者派です。
確かに休みだから選挙に行きやすいのか、ということで
恐らく日曜日に設定されているのでしょうが、
やはり面倒臭いですよね。


そこで投票率を上げる為にハガキに地図を書いたり
一部の地域で電子投票をやったりといろいろ対策を
立てたりしているのですが、効果は?的な所が。
まずは電子投票ができるようにするとかコンビニや
郵便局など行き易いところで投票も可能だったりする
など面倒くささをなくしたりも、ということもあります。



でも根本的に 「何故、投票率が低いのか?」
ということを考えるとその答えは、
「誰がなっても(当選したって)一緒」→「じゃ、行かない」
その構図が成り立つわけです。
現実、目的やきちんとした接点のある地方とかは
投票率が低くなった、といわれても70%以上あったり
するのです。むしろ問題なのは都市部です。
雇用だったり経済とか抽象的なことばかりでは
「嗚呼、これじゃ同じだな。」
と思われるのは当然かも知れません。





候補者に言いたいのは、自分が何が出来るのか、
自分は何をどうするのかどう考えてるのか。そういう
明確なビジョンを有権者に対してもっとわかり易く、
納得できるように説明する責任はあると思うのです。
一方の有権者は、誰がなっても一緒、ではなくて、
よく情報などを見極めたうえで投票をするように
心がける。不在者投票でもいいから投票所に
足を向ける努力をすること。これが大事だと思います。



これからどんどん少子化が進んでいく中でこれからの
ためにやらなければならないのは小さいうちから
「選挙は大事だ」ということを学習させておく
必要があることです。学校でも自宅でも。
そうしないと今後の日本の先行きにも影響するはずです。
今、危機感をもたないと。そう思います。




地方熱。



昨年くらいから(いやもっと前くらい)いわゆるローカル、地方発番組や
地方発バンド・タレントなどが徐々に盛り上がりを見せている傾向が。
そんな「地方熱」を一寸。




そのさきがけとなったのが「水曜どうでしょう」なのですが、
これが始まった当初、私が思ったのは

「なんでこんなローカルをやるんだよぅ。東京の番組やれー!」

正直言って、丁度その頃はお笑いのブームでして、どうしても見たい番組が
放映されなかったりして、地方在住が故の悲しさだったのですよ。
本当に恨みましたよ。
とはいえ私がちらっと見たのが丁度、「ユーコン川下り」でして、
この頃はまぁ暇つぶし程度で見ておりました。
本編と同時進行で「リターンズ」(再放送とも言う)やってましたけど
そっちはぜんぜん見てませんでした。やはり、地方在住者ゆえのことで。




それがフタを空けて見れば現在は放送地域も広がって
かなりの盛り上がりで関連グッズとか出演者関連の舞台とか
映画のチケットとか即完売の状態ですよ。
中にはネットオークションに流れることもしょっちゅうだし。


それでその出演者の人の所属するユニットの番組があって
東京進出について聞かれた時に、これからも東京での仕事が増える
だろうけれど地元で頑張る、ということをおっしゃってまして、
ネット上ではいろいろ物議をかもし出してたみたいですが、私は、
「別に本人がやりたいようにやればいいじゃない。」
というのが正直な感想でした。
ファンの人は地元で見られなくなる機会が少なくなる、と危惧していたけど。




でも。
今はそのファンの人たちの気持ちがちーーっとは
わかるような気がしております。
というのは…。


昨年末からとあるインディースバンドを応援しております。
そのバンドが東北地方で人気のあるところなんです。
今年に入って東京の事務所に所属して、関東を中心とした
ライブが増えてきている実情があって、嗚呼、どんどん
遠くなってるなーという思いがあるのです。
地元の人ではないのにね。





ここで感じたのは恐らく出演者のファンの人も
インディースバンドのファンの人も応援する人は違うけれど
どんどん名前が知れていって活動範囲が広がっていくことに対して
「なんだか地元から離れていってしまうような寂しい気持ち」
そんなことを考えているのではないだろうかと。




そんな地方熱を加熱させたのがネットの発達では
ないだろうかと。
ネットが発達する前までは雑誌とかテレビなどでしか
情報が入らないので地方局だったらその地方の情報しか
入ってこないからその地元の情報が中心になって、あとの
首都圏情報は新聞とかのニュースで見るしかなかったもの。
それが現在は。

ネットもADSLや光ファイバーになってどんどん通信速度も速くなって
HPもどんどん増えてきて知りたい情報とか簡単に入手できるようになって、
いまやさまざまなツールにURLの掲載は当たり前という形になってるし。
そしてHPやブログを自分で作ったりしていろいろ交流していくうちに
違う地方にいながらにしてローカルなものを入手できる。
そんな時代なんですよ。今は。




ある意味では今まで知らなかったものを知ることによって、
結果的に地方が活性化できる、そんな可能性もあるんだよな。
だからそんな意味で地方熱というのはひょっとすると
日本の新しいスタイルになりつつあるのかも知れません。




幸せ=信頼。



現在ネットが発達してるとはいえ、新聞の活字も恋しい。

新聞って漢字も覚えたり世の中がわかりやすいのですぐ見られるけど、
その場だけ、というネットよりもずっといいぞ。
ヤングよ、もっと新聞を読みなさい!
うちの親は地方の巨人戦の外野席のタダ券が貰えないという理由で
地元紙にしちゃったから以前よりは新聞を見る機会が少なくなった。。
読売が懐かしい。読みやすかったから。)




新聞がはこんだHAPPY NEWS2004というのがありまして、
新聞を読んでHAPPYな気持ちになった記事を大小関わらず募集したところ、
3987もの記事が集まったということです。
受賞作を見てみたら、昨年の自然災害のことから
身の回りで起こった出来事など採用されてましたが、
いくつか印象に残った記事を。



大賞受賞作「財布盗 犯人はカラス

(要約)
沖縄県の島に観光に来ていた女性が自転車で散策していて、
途中、自転車を置いて付近を散策して戻る途中、籠の中にあった
財布がなくなっているのに気づいて通報したのですが、
地元の警察官はそれを「盗み」ではなく「カラスがくわえていった」と
狙いを絞って(カラスが観光客の食べ物を狙うということがたびたびあったそう。)
探していたら予想通り、カラスの巣の中に財布を発見。
(お札は破かれてたけどほとんど被害なし。)
その警察官の方の言うには。
島の人が盗みなどするはずがない。



間違いなく都市圏ならそんなことは通用する筈ないだろうな。
その地元の警察官はその島にたった一人しかいない警察官で、
島のことをよく知っていて、そこに在住する人のこともよく知っていたから
「信頼」が成立してるんだなと思いますよ。



受賞作「妻の闘病支えたショートショート1778話」

これはがんになった奥さんのために作家の方が原稿用紙3枚以上の
ショートショートを書き続けたというお話。
これを見て、10数年前の暮しの手帖のすばらしき日曜日という
投稿コーナーに掲載されていたクモ膜下になった奥さんの毎日の
リハビリ生活を支えるご主人の話を思い出しました。
まさに「夫婦愛和す」とはこれだなと感じました。



本当に最近はといえば…。


昔だったら考えられないことが平気で起こったり、
殺人事件なんて毎日あるのが当たり前になりつつあるなと。
なんだか物凄くすさんだ世の中になっていて、
人間関係も以前と比べたら希薄だなと感じたりします。
その中でもこの記事が一番私の印象に残りました。




三陸駅構内の干し柿

―三陸駅構内にぶら下がっている干し柿は鉄道利用者を増やそうとしての
  一環で、駅を利用している人なら誰でも食べられるとこと。―(要約)


私は干し柿などの柿が苦手なのですがもし、滅茶苦茶好きだったらひとつだけでなくて
いくつももぎ取って持ち帰りするだろうな。もし利用者なら。(あまりいいことではないけど。)
恐らく何人かの人も同じ事を考えているだろうけれども、それでも利用者を信じて
このようなサービスを行う姿勢。頭が下がります。




この記事の推薦者の文章は、

互いの信頼を失った今の時代にあって、これほど安心し切った、
平和な風景があるでしょうか。
のんびりとした心持ちの中に人間教育の粋「誠信の交わり」を
確かに見たのは私だけではないでしょう。



というものでした。



「誠信」は「誠を信じる」。
この信じること、信頼することという基本的なことが
現代では完全に置き去りにされてしまっているような。
このことは日常生活だけでなくビジネスの世界にも通じるような。
幾ら世の中の流れが確かにその方向に向かっていくことはわかっていても、
それを実現に動かす大きな力とは最終的には人と人との「信頼」という
2文字に集約されているのではとそう考えます。
どんなに小さな商店だってなじみのお客さんがやってくるのは
長年積み上げられてきた「信頼」があってこそだし、
日本の商売ビジネスも信頼関係があってこそだと思います。




閑話休題。
文章の中で何よりも一番心を揺り動かした言葉は。
[素朴の中のたたえこそ、私たちの光なのです。]


そのたたえ、というものは「人と人との信頼という絆」
なんじゃないだろうか。
信頼というものが幾つも積み重なってそれが幸せ(=光)というものになる。
人を信じられなくなったときはこの世の終わりに匹敵するものが
あるのではないでしょうか。




再び選挙を考えよう。



さて先日から行われていた
郵政民営化法案が参議院で否決された、と
いうことで小泉首相が衆議院の解散・総選挙を行う方針になり、
9月11日に選挙が行われる予定で、まさに2年半弱ぶり(日本のほとんど)の
大きな選挙となるわけです。
改めて、選挙について語ってみたいと。


2年前の統一地方選では市町村合併や誘致問題など
地方の問題による選挙だったのですが、ウラを返せば
国の政策から元を発しているものであったけれど、
今回は郵便公社を民営化して官の構造をくずしていこう、という小泉さんの
信念が実現できなかったからそれのしっぺ返し的な解散でして。
民営化したら過疎化してる地域の郵便局はどうなるかなど問題もあるし
もう少し時間をかけてやってもよかったと。
それに摩り替えて一部の政治家さんは票だとか利益だとかが得られなくなるから
反対、としてる人もいるし。


確かに郵便局事業を民営化するのは悪いことではないと思うのです。
でも、なにがいけないのかというのは早く実現しようしようとして強行かつ
急いでやろうとしてたのでそれがよくなかったと。
それよりももっと解決しなきゃならん問題があるでしょうに。(年金がまさにそれ。)



今回の解散総選挙っていうのは今一度日本という国をよくする
チャンスなのではと思うのです。
ここ最近は投票率の低下が続いているのですが、その理由というのが

「誰がやってもいっしょ。」

というものですが、それっておかしくないか。
確かに誰がやってもいっしょというのは事実ですけど、
そうさせたのって国民じゃないだろうかと。
もし本当に国をよくしたい、と考えるのであれば
自分の手にて一票を投じることが必要ではないでしょうか。
(ちなみに投票率が下がると組織選挙をやってるところが強く、
自民や公明みたいな組織選挙をやってるとこが
勝利することがあるそう。)



働かざるものは食うべからず、って言葉あるじゃないですか。
文句だけ言っておいて投票へ行かないで結果を見て
文句を述べているようではダメだと思う。

今立ち上がるときではないかな。

日本国民は。




親というものの存在。



最近というか今年に入ってから
子供が親を殺してしまう、という
事件がやけに多い気がします。

複雑な家庭事情が発端となったものも
あるのだけれども、その多くは
普通の家庭の普通の子供がただ腹が立った、とか
小言がうるさいなどの理由から親を殺してしまってる、
そんな事情。




なぜ
「勉強しないから勉強しなさい」
とか日ごろの態度を注意されただけで
すぐに親を殺してしまうんだろう。


子供時代の「勉強」というのも
学校に通学するのだって
人に対する対応態度というものも
将来の社会生活における自立のために
全て必要なことなのに、一時期の自分の態度ひとつで
平気でやってはいけないことをやってしまうことを。



昔、自分が子供時代だったころ。

親のしつけ、というものはかなり厳しかった記憶があって、
「これはここではやってはいけない」
や、
「ここでのこれは常識がない」
などのマナーを厳しく教えられまして、
その時は
「なんだよー」、「そんなこと間違ってる」
と思いましたよ。
それで注意されたときには思い切りヘコみました。
「自分は何も悪いことをしていないのに、何故。」


だけども今を振り返れば、
そのことを教えて貰わなければ社会人として
かなり非常識な人になっていただろうし、
本当に親には感謝しても感謝しきれない。
本当にそう思います。


少し話が脱線しますが、

先日のドイツでのワールドカップの決勝戦での
ジダン(フランス)がマケラッツィ(イタリア)に頭突きをして
レッドカードで一発退場になった件。


世間では

「W杯決勝戦という神聖な場所でのジダンの頭突きは
許されるべきではない。全世界で見ている子供達の夢を壊した。」

という意見も結構あったようですが、
それは違うんじゃないか、って思いました。
恐らくジダンはW杯の決勝でどんなことがあっても
我慢しよう、と思ってたと思うんです。
でも退場までした頭突きの行動というのは耐えられないことで
あったのでは。と。
(フランスは移民が結構多くいろんな人種の方がいらっしゃるから
人種差別の発言ではないのか?という説もあったみたいですが。)

後日、母親と姉に対しての侮辱的発言がきっかけだったこと、
頭突きの行為自体は子供達や観客に謝罪する、ということが
インタビューによって明らかになったのです。
その「侮辱的発言」がどのようなものかは明らかにされなかったけども、
本当に心中耐え切れないものであって、思い出したくないのだな、
ということもわかるような気がします。


自分のことを悪く言われるのは知らん顔してればいいけれども、
自分の家族に対しての悪口に耐え切れず、というのは
ジダンの親・家族に対する思いやり、愛情というのが
大きいということなのでしょうね。



普通、自分の親というものは
イコール「尊敬」、
イコール「偉大なものの象徴」
というのが当たり前なんです。

それを虫けらや物言わぬ人形のように
平気で親に対して手にかける子供(とりわけ未成年)が
増えてきている。
本当に残念でならない、いや、憂慮すべき問題
じゃないだろうか。


自分の親を大切にすること。
それがひいては周りの人々に対する気配りや
コミニュケーションというものに
つながっていくのではないのでしょうか。
どれも昔の日本にあって今の日本に欠けている
ものなのだから。